わたしの家の近くは田んぼがあり、たまに散歩に行きます。田んぼにいるおたまじゃくしも、もうかえるに成長しました。おとといからは秋の気配がしています。
わたしがまだ子供だった頃は自然と接する機会がたくさんありました。祖父母がいた群馬県中之条町では道端の沢でたくさん沢ガニを獲りました。地元桐生市の山でも父親と一緒にミヤマクワガタやサンショウウオ、ホタル、ウナギなどを獲りにいきました。近くの沼にも子供たちだけでザリガニを獲りにもいきました。いまある田んぼにも、その当時はタニシ、ゲンゴロウ、どじょう、イナゴ、バッタ、キリギリス、アマガエル、トノサマガエル、ウシガエルがたくさんいました。近くの栗林ではノコギリクワガタやカブトムシもたくさんいました。家の庭にもハンミョウやオケラ、大きなカタツムリがいました。
今現在田んぼに散歩に行くと、とてもさみしい思いをします。昔あんなにたくさんいた生き物たちがほとんど姿を消してしまっているからです。田んぼの畦道は除草剤が撒かれ草が枯れています。当然そこにいた虫達も死に絶えてしまいます。ですから、さみしさと共に怖いという思いがします。
昆虫達が死んでしまったということは、それをエサにしている鳥達の食料がなくなったということです。ですけど、そこには人間が食するお米になる稲だけが整然と生えています。わたしには、この風景は「私達人間が生きるための食べ物は育てさせてもらうよ。作物をつくっているときに、君たちがいて、作物を傷めるのはいやだから君たちはみな死んでくれ」と言っているように思えます。自然のバランスがくずれてしまったなかで、農薬を使わすに害虫を駆除するのは農業をやっていらっしゃる当事者の方達としては大変なことなのでしょうが、この状況を変えることはできないんでしょうか?害虫も殺しますけど、一緒に益虫も殺してしまうんですよね。自分の家にある家庭菜園でもアブラムシがかなり発生します。それを食べてくれるてんとう虫もかなり減っています。わたしの母親もすぐに除草剤や殺虫剤でことをすまそうとします。アブラムシにはミルクを撒くとよいようです。
どこかで聞いた話ですが、よい環境というのは多種多様な生き物がいて、その生き物のそれぞれの個体数が少ない環境だそうです。それが悪化すると、それぞれの個体数が多く、生き物の種類が少なくなるそうです。そうして見ると、大都会と呼ばれている東京はどうでしょう。特に都心では鳥はカラスしか見ることがないように見えます。しかも霊長類の”人間”の個体数が極端に多くありませんか。多種多様な生き物達が繁栄できない世界は、わたしには異様な世界に見えます。
ですから、いまも一区画のかたすみの田んぼにいるゲンゴロウやおたまじゃくし、アマガエル達を見ると、いまはとても愛おしく思います。昔こんな歌がありました。「手のひらを太陽に」という歌ですが、♪〜 ぼくらはみんな生きている(中略)トンボだって オケラだって アメンボだって みんな みんな 生きているんだ 友達なんだ 〜♪」
量子物理学の世界では私達も含めて、すべて同じもの(ものではないですが)ですね。それがすべてが織りなして、この世界を形作っているんですよね。
今、この歌を思い出して、この歌詞の意味の深さを感じています。
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