2013年1月28日月曜日

エッセイ1

 寒い日が続きますね。幸い、群馬県桐生市近辺は雪の影響はあまりありませんでした。
 さて、ここ東毛地区で配布されているタウンわたらせに、2010年にエッセイを掲載させていただきました。短いですので、計4回のエッセイを一本ずつ投稿していきたいと思います。


タウンわたらせエッセイ1~ ボサノヴァ:愛とほほえみと花 ~
2010年6月5日第387号掲載

 みなさん、ブラジルといえば何を思い浮かべますか?毎年テレビのニュースなどで取り上げられることといえば、リオのサンバ・カーニバルかと思います。サンバの発祥地は実はリオではありません。ブラジル北東部のバイーア州というところです。この州のサルバドールという町に、アフリカから奴隷として連れて来られた様々な主族の宗教からのものだそうです。1900年代前半まで公には禁止されていたそうです。
 部族では、それぞれが独自のリズムを持っているそうで、それがブラジル内で融合し、複雑なポリリズム(複合リズム)になりました。ですから、サンバの中にも色々なリズムがありますし、一時期流行ったランバーダなど他にもたくさんのリズムがあります。サンバとして形になったのは今から100年ほど前だそうです。
 リオ・デ・ジャネイロではサンバの他にショーロという哀愁を帯びた音楽があります。ブラジルは様々な移民による国で、最初に入植したポルトガル人をはじめ、スペイン人、フランス人そしてイタリア人などラテン圏の人々が入ってきました。彼らの中には亡命したヨーロッパの宮廷貴族がいて、そのような人々はお抱えの宮仕人も引き連れて来たそうです。ですから、リオ・デ・ジャネイロという街ではできた当初からピアノの所有率が高かったそうです。滞在時にブラジルオペラ協会の会長さんの誕生日パーティーにうかがったことがあるのですが、催された別荘の大きさは、プールなども勿論あって広大でした。当然、宮廷舞踊であるポルカ、ルンドゥなどが当時のサロンでは奏されていて、それがショーロの前身で、今から100年ほど前に形となったとされています。
 それに加えて、わたしが思うにリオ・デ・ジャネイロの音楽文化に書かせない要素はセレナータ(セレナード)です。思いを寄せる人へ奏するロマンティックな要素はラテン文化ならではです。ですから、イタリア音楽やメキシコのボレロなどもブラジル人は好んで聴いています。そうした音楽が成熟し、アメリカのスタンダード音楽やジャズなども取り込み、1950年代後半にボサノヴァという音楽が登場します。
 初めてのボサノヴァの曲「シェガ・ヂ・サウダージ」という曲は1958年に発表されました。そしてこの曲をひっさげ、独特なギターの弾き語りをするジョアン・ジルベルトの登場によって、ボサノヴァのブームが起こりました。作詞はヴィニシウス・ヂ・モラエス、作曲はアントニオ・カルロス・ジョビン、歌はジョアン・ジルベルト。ボサノヴァの代表曲のほとんどはこの三人によって送り出されたといっても過言ではありません。
 ヴィニシウスは作詞家に転向するまでは外交官をしていました。彼は作詞するにあたって、テーマを持っていました。それは「愛とほほえみと花」でした。ジョビンは自然を愛し、アマゾンの森林伐採の反対を唱えるエコロジストでもありました。ジョアンはサンバ発祥地バイーアから歌手として成功を夢見てリオに出てきましたが、失敗し、一時期姉夫婦の家に居候をしていました。その時期にギターによる独自の伴奏法を編み出し、ささやくような歌唱法とともにボサノヴァのスタイルを生み出したのでした。彼はそのスタイルを確立する過程においていつもある人に聞かせていました。その相手とは、姉夫婦の赤ちゃんでした。その子が安心してスヤスヤと眠れるための最良の子守唄だったのです。
 サンバというプリミティブな音楽を昇華させたボサノヴァ。そこにはポルトガル語の抑揚も重要な要素で、愛の波動に溢れた音楽です。
 

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