群馬県内東毛地区で配布されているタウンわたらせの、2010年に掲載されたエッセイの第2回です。一部加筆訂正しました。
タウンわたらせエッセイ2~ リオ・デ・ジャネイロ滞在記 ~
2010年6月12日第388号掲載
わたしがボサノヴァという音楽を始めたのは28歳のときです。それまで、歌も楽器もまともにできませんでした。ましてや、人前で披露することなんてことはもってのほかでした。最初は独学でしたが、東京へ行き、新橋にある、ボサノヴァ歌手の中村善朗氏のレッスン教室に通い、発音はライブレストランのオーナー夫人のブラジル人の方に習いました。そして2000年11月、本場のブラジル、リオ・デ・ジャネイロに渡りました。リオに知人はいなかったので、最初はホテルに滞在しました。そのうちにある日系人の方の紹介で、イタリア系のブラジル人のおばあさんのマンションにホームステイさせてもらうことになりました。そちらでは、我が子同然に接してもらえました。
ブラジルはカトリック信者の多い国です。ですから、日常使う言葉にも、とても反映されています。例えば、「いってらっしゃい」という言葉は直訳すると「神様と行きなさい」、「行ってきます」は「神様といてください」となります。そのおばあさんは娘さんを交通事故で亡くしてしまったのですが、「どうして神様はわたしから娘を奪ったんだろう」と泣きながら言っていました。おばあさんも2002年に亡くなられました。
リオ・デ・ジャネイロは日本からすると地球の裏側の街です。それだからでしょうか、日本と習慣と気質が全く違います。一例をあげますと、ブラジルでは感情を体で表現します。あいさつは抱擁。女性に対しては加えて両頰にキスをします。親しければ親しいほど熱烈にするのが当たり前なので、日本人には苦手な仕草だと思います。
リオの人のことをカリオカといいます。ちなみに南米最大で日系人も多いサン・パウロのひとをパウリスタといいます。カリオカはおしゃべりが大好きで、ひとなつっこくて、底抜けに明るいです。朝は浜辺で日光浴、昼の仕事を終えると夜はバイレ(ダンスパーティー)に繰り出したり、バールというサンバ、ショーロ、ボサノヴァの生演奏を聞けるお店でビールとおつまみを摂りながら、聞いたり、歌ったり、踊ったりしています。お店が始まるのは8時ぐらいからで、最高潮はいつも夜更け。一日一日を満喫して生きているのですが、そのタフさは日本人には到底真似できないでしょう。
リオの中心街はコパカバーナ、イパネマという有名な海岸が隣接してあり、海岸沿いには大きなホテルが並びます。ちょっと内陸部に入ると、岩肌がむき出しの山がそびえていて、道路沿いや公園には大きな椰子の木が生えています。椰子の木の葉は6、7mあります。ある日、公園のベンチにいたら、その葉が落ちてきたことがあるのですが、落ちたときのドスンという大きな音にびっくりしました。人間に直撃したら死んでしまうと思います。あのときは本当に肝をつぶしました。
リオは自然の息吹が感じられる街です。ジャルジン・ボタニコという広大な植物園もあります。公園や海岸には小さな野鳩がたくさんいます。日本に多く見られるスズメやカラスはいません。ハチドリも生息し、窓から入って来て、家の中に置いてある鉢植えの植物の花の蜜を吸っているのを見たことがあります。
リオ・デ・ジャネイロの気候は亜熱帯で、夏の気温は42℃に昇ることもあります。汗をかいてもすぐ乾いてしまい、Tシャツに塩がふいた状態になります。水分もこまめに摂らないと熱中症になります。現地の人は安くておいしい椰子の実の水やオレンジ・ジュースをよく飲みます。
ブラジルの共通言語はポルトガル語です。渡る前に一応勉強していったつもりでしたが、最初は大分苦労しました。挨拶ぐらいまではよいのですが、その後に続く日常話している言葉が聞きとれずにコミュニケーションできませんでした。そうして6ヶ月が過ぎたところ不思議なことが起こりました。ある日を境におばあさんが言っていることがはっきり分かり、こちらもそれに応えて言葉が自然に出て来たのです。まるで幼児が突然すらすらと話し出す感じでしょうか。勿論、複雑な会話になれば話は別ですが、ブラジル人と共に生活し、日常会話を交わすことで歌詞の言葉の意味合いを肌で感じることができて、リオに滞在したことは本当によかったと思います。
郷に入れば郷に従え その土地の風俗、習慣を受け入れてしまえば、現地の人々にも快く受け入れてもらえて住めば都となるものだなと思いました。